樋口久子さんは、女子プロゴルファーの草分け的な
存在的な人で
プロ引退後は日本女子ゴルフ会長として
日本女子プロゴルフ界を引っ張って
人気スポーツの一つにします。
樋口久子さんは
もちろん、日本プロゴルファーの第一期生でもあります。
男女を通じて
アジア出身選手初のメジャー選手権優勝者。
ページコンテンツ
樋口久子の現在や年齢やプロフィール
樋口久子さんは、1945年に埼玉県川越市に生まれました。
中学時代は陸上競技(ハードル選手)に日々、熱中しています。
高校は二階堂高校(現・日本女子体育大付属二階堂高校)時代
ゴルフを本格的に取り組み始めます。
樋口さんも他の女子ゴルファーと同じく
若い時に、足腰を鍛えるスポーツで、汗を流し
夜遅くまで練習に明け暮れしていたと思います。
◆生年月日 1945年10月13日
◆身長 163cm
◆体重 60㎏
◆出身地 埼玉県川越市
◆プロ勝利数 73勝
プロ合格:1967年・第1期生
初優勝(1968年):日本女子プロ選手権大会
◆優勝数 LPGA ツァー 2
日本LPGA 69
◆LPGAメジャー
全米女子プロ:1977年優勝
◆賞金女王(11回)
1968年~1976年(9回)
1978年、1979年(2回)
◆世界殿堂入り
2003年・特別功労部門
◆日本プロゴルフ殿堂入り
2013年・プレーヤー部門
樋口久子の夫、結婚相手は二人
樋口久子の初めの夫は松井功さん
二人は結婚しました。
樋口久子さんが27歳、松井功さんが31歳の時。
樋口さんは5年連続の賞金女王。
松井さんはレッスンプロをしています。
今で言う格差婚であったかもしれません。
10年後二人は離婚を決意しますが
離婚後も良好な関係を築いていきました。
後に
樋口久子さんは女子ゴルフ会長として
松井功さんは男子ゴルフ会長として
ゴルフスポーツ界を両輪で引っ張っていって
今日のゴルフ界の発展に貢献した二人です。
樋口久子さんは再婚
1985年に再婚されています。
旦那さんは、大塚克史さん「オフィス・チャコ」の社長さん。
3年後、1988年に長女の娘さん(久仁子)さんが産まれます。
出産時は樋口さん42歳の高齢出産。
幸せな家庭生活ですね。
樋口久子の姉が背中を押し、中村寅吉さんとつなげる
お姉さんの勤めていたのは
東京世田谷の東急砧ゴルフ場で働いていました。
樋口久子さんは、お姉さん(明子さん)の職場の
東急砧ゴルフ場で、ゴルフとの出会いが
人生を大きく変えることになります。
姉の一言
樋口久子さんが高校を卒業し、進路を決めるときに
お姉さんの一言
『あなたはスポーツが好きなのだからゴルフをやってみたら』
姉に薦められた一言!
この一言が樋口久子さんをゴルフに目を向けることになり
樋口久子さんのゴルフ人生の始まりになります。
そしてお姉さんは、樋口久子さんの師匠中村寅吉さんとの
出会いをつくります。
東急砧ゴルフ場でゴルフの父、中村寅吉さんを知ります。
人生でいかに自分の師匠と巡り会えるかで人生は
決まると言っていいでしょう。
その意味で、樋口久子さんが中村寅吉さんとの巡りあいは
ラッキーとしか言いようがありません。
樋口久子の師匠は中村寅吉さん
中村寅吉さんは当時、川越カントリークラブの社長をしておられ
1957年カナダカップ(現ワールドカップ・W杯)で個人優勝。
小野光一さんと組んだ団体戦でも優勝し
日本でのゴルフブームの火付け役でもあります。
樋口久子さんは川越CCの研修生になります。
中村寅吉さんとの師弟関係の始まりです。
樋口さん曰く
「先生(中村)には一から手取り足取り教えていただきました。川越CCはアップダウンが結構あるコースでね、だからすべてのショットを教わることができたのです」
練習に打ち込む日々に「ダメだったらほかのことやればいいか」という軽い気持ちはいつしか消えていく。
出典:日刊スポーツ
樋口久子さんの研修生時代の話では
「朝、ゴルフ場へ行って、練習場に詰める。9時半になったら、たいていお客さんはいなくなります。そこからは一日中ボールを打てた。お昼だけですよ、休んで食事。ボール拾いしてコースに出てハーフを回らせてもらった。月に1度は研修会がありましてね。とにかく技術がうまくならなくてはいけない、と…。本当に修行の日々でしたね」
出典:日刊スポーツ
樋口久子さんの修行の日々は続きます。
そんなとき
1967年10月、第1期女子プロテストが
川越CCで開催され、26人の受験者は全員合格。
樋口さんは73で回りトップ合格されます。
樋口久子は全米女子プロ選手権(メジャー)を制した
1977年全米女子プロ選手権が
サウスカロライナ州、ベイツリー・ゴルフプランテーションで
行われました。
激戦の激戦になったという。
樋口久子プロは、初日71、2日目67,3日目72
樋口「3日間終わって、首位タイが4人。最終日はパット・ブラドリーが前の組だった。前の週は最終日最終組で自分にプレッシャーをかけて自滅したので、その日は下を向いて歩いた。ボードを見ないようにしたんです。15番でバーディーチャンスがやって来た。グリーンを読んでいると、前方のカメラマンが不意に動いた。で、彼の後方にあったボードが見えてしまった。私の名前が一番上にありました。でも、そこでバーディーが取れた」
16番は第2打をトップ、バンカー手前で弾んで奥にこぼれる。17番の164ヤードは4番アイアンで打った。キャディーはもはや「リラックス、リラックス」を繰り返すばかり…。そして18番パー5。ティーショットが右の林へ。だが、スイングができる場所だった。8番アイアンでバンカー手前に運び、残りは100ヤード。「得意な9番アイアンのハーフショット」でピン横2メートル弱に寄せた。樋口久子という選手は、よほど肝が据わっていたのだ。土壇場のプレーを30年後の今も克明に覚えている。この怜悧(れいり)さが、おそらく史上ただ1人の快挙につながったのだろう。
樋口「18番で3オンして初めてボードを意識的に見ました。2位と3打差があった。3パットしても勝てるんだ…。ああ、もうこれでゴルフやめてもいいな、と思いましたね。よくアメリカへ8年も来たものだ、とも…。
出典:日刊スポーツ
樋口久子さんがアメリカにわたり8年目の
メジャー全米女子プロ選手権の優勝です。
凄い快挙としか言いようがない。
樋口久子の夫結婚相手は二人
樋口久子の初めの夫は松井功さん
二人は結婚しました。
樋口久子さんが27歳、松井功さんが31歳の時。
樋口さんは5年連続の賞金女王。
松井さんはレッスンプロをしています。
今で言う格差婚であったかもしれません。
10年後二人は離婚を決意しますが
離婚後も良好な関係を築いていきました。
後に
樋口久子さんは女子ゴルフ会長として
松井功さんは男子ゴルフ会長として
ゴルフスポーツ界を両輪で引っ張っていって
今日のゴルフ界の発展に貢献した二人です。
樋口久子さんは再婚
1985年に再婚されています。
旦那さんは、大塚克史さん「オフィス・チャコ」の社長さん。
3年後、1988年に長女の娘さん(久仁子)さんが産まれます。
出産時は樋口さん42歳の高齢出産。
幸せな家庭生活ですね。
樋口久子の愛称・『チャコ』は誰が決めた?
樋口久子さんの愛称・あだ名のチャコは
誰が使い始めたのでしょうか?
樋口久子さんは、次のように言っています。
樋口「私は小さなころから母親(安代さん)にチャコと呼ばれていました。
アメリカへ行く時
久子は発音しにくいので
ニックネームをつけることになったので
即座に『チャコ』にした。
出典:日刊スポーツ
何故、お母さんが久子さんの名前から
『チャコ』になったのかはわかりません。
樋口久子プロの父母親どんな人?
樋口久子さんの父親(武夫)は海軍で料理を担当していていて、その後、魚屋、すし屋を営んでいます。
母親(安代)さんは熱心な天理教の熱烈な信者で、長生きの90歳まで生きられました。