多くの外国選手が
日本ツァーで活躍するようになった先駆者的存在の一人が
涂阿玉さんです。
涂阿玉は
台湾出身プロゴルファーで
日本のツァーに参戦し、ゴルフ番組でよく見かけてのを
今でも覚えています。
涂阿玉のプロフィール
名前 涂阿玉(とあぎょく)
生年月日 1954年9月29日
出身地 台湾・台中県豊原市(現:台中市豊原区)
身長 165cm
プロ転向 1981年1月1日(39期生)
優勝回数 日本女子:69勝
賞金女王 1982~1986(6年間)・1989年・1991年
賞金ランク最高位 日本女子:1位・7回
生涯獲得賞金 740,230,000円
日本プロゴルフ殿堂
選出年 2017年
選出部門 プレーヤー
1954年
台湾の台中県豊原市の果樹園農家に生まれる
1969年頃
中学(翁子中学校)卒業後、豊原CCへキャディーとして就職。
17歳の時に淡水GCへ。
淡水GCのヘッドプロ、陳金獅プロと出逢い師事し
涂阿玉はプロゴルファーへの道へ。
涂阿玉は台湾出身で、若い頃は?
涂阿玉 中学生時代に家の前にゴルフ場(豊原CC)ができて、そこでバイトしたのがゴルフとの出会いです。人のを見て自分で覚えたから最初はフックグリップ。球は全部フックでした。
引用元:ゴルフダイジェスト(https://www.golfdigest-minna.jp/_ct/16986247)
彼女、涂阿玉さんは言っています。
家の前にゴルフ場(豊原CC)が出来たと。
運命の歯車が
ゴルフへと導いていきます。
豊原CCでキャディーして働き始めた涂阿玉。
この時のコーチは呉朝炳プロで
背の低い小柄な人に教えるのが上手いプロ。
この教えが涂阿玉のゴルフの基本となる。
涂阿玉は17歳の時、淡水GCに移り陳金獅に師事。
又、当時日本オープン覇者の郭吉雄プロ
陳清波プロも在籍しています。
この時、陳清波プロと出逢い、2回レッスンをしてもらっています。
涂阿玉 フックボールは陳金獅先生のレッスンで直しました。郭吉雄さんからはアプローチとパターを少し教えてもらいました。パンチショットは許勝三さんに教わりましたね。
引用元:ゴルフダイジェスト
涂阿玉 謝永郁から「アナタ、1流のプロになりたければ、1本のクラブで最低4つの球を打てるようになりなさい」と言われました。フック、スライス、高い球、低い球の4つの球を覚えろということです。当時は練習場で真っすぐの球は打たなかったです。全部変化球。全部です。
引用元:ゴルフダイジェスト
この2つの言葉の技の習得に励んだ時の
若き日々だったと思います。
この時期の練習が
大きく花が咲き
涂阿玉プロは一流ゴルファーになりました。
一流プロは
人の見えない所で
人の見えない時に
コツコツと地道な努力・練習の
繰り返しをしています。
台湾出身の涂阿玉選手は来日して10年目の
昭和58年(1983年)日本女子オープンゴルフの初優勝を果たす。
「私は台湾の選手です。台湾から来て日本の試合に出ています。
大会史上初の外国人チャンピオンの日本語による挨拶。
「ごく当たり前の内容だった。
▼しかし、彼女をよく知るゴルフ関係者の胸にはぐっと
迫るものがあった。
「日本でゴルフをやり、金を稼ぐんだったら
上をいくな。
下をいくつもりでやれ」
台湾で教えを受けた恩師からこう諭されてきた。
大きな態度をとるな、控えめな言動をとれ、という意味だ。
▼「よそさまの国」で稼がせてもらっている。
あいさつからも、謙虚さが伝わってきたという。
それからも涂阿玉選手は勝ち続けた。
生涯獲得賞金はすでに7億円を超えている。
まっとうなやり方なら
よそさまの国で、いくら稼いでもらってもかまわない。
引用元:産經抄
涂阿玉は日本で69勝しているプロゴルファーです。
この文章を読んで
涂阿玉プロの謙虚さが伺えます。
それは恩師の姿勢でもあります。
台湾の選手に親しみを感じると共に
応援したくなりますね。
涂阿玉の結婚し今の生活は?
涂阿玉は陳碧宗と結婚されています。
詳しい情報はありません。
涂阿玉に続く、台湾出身のプロゴルファーは?
テレサ・ルー (盧暁晴)
日本16勝(国内メジャー4勝)
11歳からゴルフを始め、2009年予餞会を経て
日本ツァーに参戦。
ヤニ・ツェン
USA14勝(海外メジャー5勝)
19歳で臨んだアメリカ女子ツァールーキーイヤーの
2008年にプロ初勝利。
しかも全米プロゴルフ選手権で、優勝を成し遂げる。