尾崎将司は高校球児であり元プロ野球選手だった!(本名・正司)

男子プロゴルファー(国内)

私より1歳年上の74歳の

ジャンボ尾崎選手!

団塊の世代のゴルフ選手のスーパースターでした。

ゴルフを始めた40代は

ゴルフの試合のテレビ番組は

ジャンボ尾崎選手の一人勝ちの雰囲気がありました。

 

彼、ジャンボ尾崎選手のプレーにあこがれました。

クラブ、ファッションも揃えた時もあります。

私をゴルフの世界に導いてくれた一人でもあります。

 

 

ジャンボ尾崎選手の愛称はどこから?

ジャンボ尾崎選手の

ジャンボの愛称を調べてみました。

 

尾崎将司の愛称【ジャンボ】はスポーツ紙が名づけ親

スポーツニッポンの記者の樋口恭さんが

70年代に習志野で行われた大会で尾崎将司

【ジャンボプロ誕生】という見出しを使ったのが

始まりと言われています。

 

当時、アメリカからジャンボジェット機(ボーイング747)が

多くの航空会社が導入した時期だったから。

 

ジャンボ尾崎選手は「パワーゴルフ」という言葉が使われ始めたころでもあり

パワーヒッターの300ヤードは大きな魅力でもあり

ジャンボジェット機の大きさとパワーヒッターヒッターの才能とが

上手く結びついたビッグネームの愛称になったと思います。

 

今でも、ジャンボと言えば尾崎プロ。

参考:ゴルフ昔話(ミタさん&タクさんの対談より)

 

尾崎将司のプロフィール

尾崎正司は高校球児(高校時代は本名・正司で登録)

彼、ジャンボ尾崎は

いや、高校時代は尾崎正司選手は

高校時代は白球を追いかけ

泥まみれになりながら

野球に明け暮れた日々を過ごしていた高校球児です。

 

彼、尾崎正司選手は

徳島海南高校時代に

1964年の春の選抜大会で

エースとして出場し優勝投手になる。

 

決勝は尾道商と対戦

8回には自ら同点タイムリーを打つなど

投打に活躍して優勝しました。

もちろん打順は4番。

 

【1964年センパツ優勝詳細】

1回戦  4-1秋田工

2回戦  1-0報徳学園

準々決勝 8ー0金沢

準決勝  1-0土佐

決勝   3-2尾道商

 

現在、尾崎正司選手の母校

徳島海南高校は廃校になり

徳島県立海部高等学校となっています。

 

ちなみに、徳島海南高校の甲子園の戦績は

5勝0敗で

この優勝が最初で最後の甲子園です。

 

㊟徳島海南高校、宍喰商業、日和佐高校の3校が合併し

徳島県立海部高等学校になりました。

 

尾崎正司は元プロ野球・西鉄ライオンズの選手だった!(プロ野球時代本名・正司で登録)

 

1964年

西鉄ライオンズに入団する。

この時は、ドラフト制度がなく

将来を嘱望され、背番号は22番を。

 

1軍通算では、20試合に登板 0勝1敗

41.1投球回、自責点22、奪三振22、防御率4.83

 

池永投手は2年目15勝、3年目23勝して実績を積み上げていた。

「池永がおったらわしなんて投手で飯は食えん」と

投手に見切りをつけて外野手転向。

 

阪神から西鉄に移籍した本間さんは

尾崎選手のバッティングは

「すごかったよ。ボンボンと遠くへ飛ばしていたし

2,3年後には必ず西鉄の4番打者になると

みんな確信していた。」と

 

打者転向するも、結局、1967年に西鉄退団。

入団から3年目の決断でした。

 

ジャンボ尾崎の誕生・(ゴルフ時代に正司から将司に改名)

ジャンボ尾崎将司選手のゴルフとの出会いは

西鉄のプロ野球選手のゴルフプレー中の

玉探しが初めてと言われています。

 

でも同僚の本間さんの記憶では

尾崎将司は一緒に回った時にはすでに

「シングルの人とスクラッチでラウンドできる実力」だった。と

 

3年足らずで

本間さんは尾崎将司を「天才」と感じたという。

 

 

プロ野球からゴルフに転身する後押しをした人は

同僚の稲尾投手とも

監督の中西太さんとも

コーチの花井悠さんとも言われています。

ただ、中西さんは知人を通して千葉県習志野CCを紹介します。

 

研修生時代を過ごします。が

 

本当は、研修生は独身でないとなれなかったんですが

当時、結婚していて奥さん(義子夫人)に

「3年待ってろ」と言って九州に残し

上京したと言います。

 

研修生時代

千葉県習志野CCと

河川敷の錦ケ原ゴルフ場(埼玉県)で

よく練習する姿を見かけたと言います。

 

プロテスト合格は1970年、一発合格しました。

 

初優勝は1971年日本プロ選手権。

ここからジャンボ尾崎選手の幕開けが始まります。

 

 

その後の3ヶ月5勝。

1973年から始まった賞金ランキング制で

見事初代チャンピオン。(年間優勝5回・獲得賞金額4381万4000円)

 

ジャンボ尾崎選手は113回優勝。

(メジャー20勝)国内最多優勝回数

(国内112勝・海外1勝)

海外の選手を含めても最多優勝

 

最後の優勝は55歳でツァー最年長記録。

 

2010年ジャンボ尾崎選手は世界殿堂入りをする。

ジャンボ尾崎さんはアカデミーを作り、若い選手の育成をしています。

アカデミーについては、こちらの記事もお読みください。

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尾崎将司の家庭環境

母、寿子さんと実さんは1942年に結婚。

昭和22年(1947年)正司さん(後に将司と改名)が長男として生まれる。

昭和25年(1950年)美穂さんが長女として生まれる。

昭和29年(1954年)建夫が次男として生まれる。

昭和31年(1956年)道直が三男として生まれる

 

弟の建夫についてはこちらの記事もお読みください。

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実さんの教育方針は

実さん自身、元航空飛行隊員だったこともあり

「戦争で負けることは死ぬことだ。どんなに苦しくても

危険があっても負けてはいかん。

それと同じで試合でも負けることは死ぬことだと思え」と

スパルタ式教育だったんですね。

 

 

家庭は、貧しく

将司曰く

「子供に食べさせるため一生懸命、黙々と働く姿で

最高の教育をしてくれた」

 

建夫曰はく

「運動をやってきた俺たちに食べさせるだけでも大変だったのに

不足したことはなかった。

多分、オフクロが食べるのを我慢してたと思う。

どんな豪華な食事より帰省した時のカレーが一番うまかった」と。

 

お母さんは子供思いの優しさ一杯の人だったと感じます。

 

尾崎家の長女であり

ジャンボ尾崎の妹さんの美穂さんは

尾崎家の故郷(徳島県阿南市、阿南駅すぐ)で

居酒屋【酒楽亭】を経営されています。

港の近くでもあり

海の幸満載の食事で人気店でもあります。

 

尾崎将司選手兄弟の3人ともゴルフ選手

尾崎将司さんの弟2人は(建夫・直道)

兄のすすめも有りゴルフ選手になりました。

 

次男・尾崎建夫(ジェット尾崎)

昭和29年(1954年)尾崎家の次男として生まれる。

建夫はジェット尾崎と愛称をつけられ

ドライバーショットがジェット機のように強烈なことから

若手プロから呼ばれていた。

 

ジェット尾崎プロは高校時代

兄と同じ道、高校球児で徳島海南高校のエースとして

活躍するも、甲子園には行けなかった。

が、1971年のドラフト会議でヤクルトから3位指名を受けたが

オファーを断って

兄と同じ道のゴルファーの道を選ぶのです。

 

18歳からゴルフをはじめて

21歳(1975年)にプロ転向し、ツァーデビューは1976年です。

最初の試合はアジアサーキーキットでのフィリピンオープン。

 

ジャンボ尾崎はジェット尾崎を評して

「身体能力は兄弟の中で建夫がピカイチ、俺なんか敵わない。」

と、思っていたそうです。

1984年「白竜湖ポカリスウェットオープン」で建夫が優勝。

優勝回数15勝

優勝賞金最高位3位(1984年・1985年)

 

女優坂口良子さんと結婚

2012年8月10日に女優坂口良子さんと結婚し話題になる。

ジェット尾崎(建夫)さんは、坂口良子さんの病(癌)を知りつつ

結婚は「最後は一緒のお墓に入りたい」と

 

ジェット尾崎(建夫)さんの献身的な看病のかいもなく

57歳の若さで亡くなり

結婚生活は、わずか7ヵ月の夫婦生活で

悲しい、悲しい別れとなりました。

 

三男・直道 (ジョー)

昭和31年(1956年)直道が生まれる。

直道は、2人の兄と違い

高校野球には進みませんでした。

千葉日大一高に進み仲間一人とゴルフ部を作って

腕を磨いた。

 

ジョーは「J」を頭文字にして

当時契約していたブリジストンがファンからニックネームを

募集したものだった。

 

尾崎直道選手は1984年初優勝を「静岡オープン」で飾り

1948年3勝をマーク

1991年4勝をし、自身初の賞金王になる。

1999年2度目の賞金王タイトルを獲得。

粘り強く、マムシのジョーとも言われたりしました。

優勝回数32勝

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